「・」は和合

立木 秀樹

人間と環境をつなぐ「・」について、これは単なる足し算ではなく、掛け算でなくてはならないという言葉を何度も耳にしてきた。私はこれに違和感を覚えている。数の上で考えると、 1+1は 2 になるが 1 × 1 は 1 にしかならないし、1/2 + 1/2 は 1 になるのに 1/2 × 1/2 は 1/4 になってしまう。掛け算という言葉で、数の演算ではなく二つの種の交配(掛け合わせ)のような、インターラクションを通じて新しいものを作り出す操作を言わんとしているように思えるが、異なる種類のものを掛け合わせたら有効な新種が生まれるというのは楽観的すぎるように思う。ここでは、「・」の意味について私なりに考えてみたい。

 その前に、私の研究の話をさせていただきたい。私はもともと、プログラミング言語理論の観点から計算の仕組みについて研究をしていた。その中で、実数上で計算を行うための無限な表現に関するあるアイデアが浮かび、その構造の美しさに魅せられて、それについて考えてきた。この研究は実用と離れているし、この分野の標準的アプローチからも距離があるので、メジャーな研究にはなり難いが、20年も続けている中で、いい研究コミュニティに属し、いい共同研究者や学生と出会い、いい研究ができたと思っている。この研究はまだ続いているが、それについては今回はお話ししない。

 ここ、総人・人環は、何を研究するかについて自由である(と思っている)。誰にも干渉されずに、興味の赴くままに研究ができて幸せであるが、自分の行なっていることと周りとの接点の少なさに、本当にこれでいいのだろうかと不安に感じることがある。その中で、自分が大学人として存在することの価値を最大限に高めるように、何かしたいと考えるようになってきた。

 そんなある時、私の実数表現をシェルピンスキー四面体上に拡張し、正方形への射影を通じて導出される正方形の色付けについて考えようという研究上のお誘いを、友人から受けた。私の表現は実数のフラクタル性を活かしたものであり、フラクタル立体であるシェルピンスキー四面体とは相性がよい。その研究は研究集会で1回話しただけで終わってしまったが、その時友人は、4つの正四面体を頂点でくっつけたものを作ってプロジェクタの前で回しながら説明を行なった。その影の穴がふさがってきれいな正方形になるのを見た瞬間、私はドキッとした。それまでシェルピンスキー四面体が正方形に射影されるということに、数学的事実として興味をもっていたが、私が感じた美しさや驚きを、もっと多くの人に伝えられないだろうか。これが、その後の一連の活動の原点である。

 まず、再帰的なアルゴリズムについて教えるのに、シェルピンスキー四面体の近似の工作を授業で行なってみた。そして、シェルピンスキー四面体に基づくオブジェを制作し、シェルピンスキー四面体と同じような構造をした2つのフラクタル(HフラクタルとTフラクタル)を発見し、その元になる2つの多面体 H と T に出会い、それらを抽象化したイマジナリーキューブの概念とその研究、それに基づいたパズルの制作とその授業への応用と話が続いていくのだが、紙面が足りないのでここでは述べない。興味のある方は、私のホームページや、2年前のオープンキャンパスの模擬講義のビデオ(OCWに登録されている)を見ていただきたい。

 さて、シェルピンスキー四面体のオブジェ(正方形に見える瞬間に、時計台の写真とエンブレムが浮かび上がるもの)ができた時、うれしくて研究科長の冨田博之先生に見せにいった。今から思うとそんなことで喜んでいた自分が恥ずかしいが、冨田先生は研究科長室にしばらく置いてくれた。それが酒井先生の目にとまり、これで日除けを作ったら、風通しがよくて熱くならない日除けができるというアイデアのもとフラクタル日除けの研究を行い、商品化までしてしまった。

 シェルピンスキー四面体を世の中に広めたいと思っていた私には願ったりかなったりだが、正直なところ、これを日除けにすることに、かなりの違和感を覚えていた。シェルピンスキー四面体は辺方向から射影すると正方形の影を作るが、それ以外のほとんどの方向では、影の面積は 0 になり、日除けとして役にたたないはずである。もちろん、実際に作るのは有限の近似なので影はできて、魅力的な形の影のもとでみんな勉強したりご飯を食べたりしているし、フラクタルな日陰で遊んだ子供が将来何に興味を持つのだろうと考えるとワクワクする。しかし、数学者としては、「木漏れ日が気持ちいい」という酒井先生の巧みな言葉に誤魔化されているような気がしてならなかった。

 そう思いつつも、シェルピンスキー四面体の影の面積がほとんどの方向で 0 になるということの確証がないために、酒井先生には何も話せずにいた。これについて調べてみたが,どこにも書いていない。専門が異なる私に解ける問題とは思えなかったし、他の研究で手一杯なので、これについては放置していた。しかし昨年、 3D プリンタを購入してフラクタルを精密に作れるようになったのを機に真剣に考えてみると解くことができ、次のことが分かった。

シェルピンスキー四面体の4つの頂点の影、 A、 B、 C、 D が、 (AD) ⃗ = x (AB) ⃗ + y (AC) ⃗ という関係にあるとします。 x と y がともに、奇数/奇数という形の有理数である時に影は正の面積をもち、それ以外の時には影の面積は 0 になります。

 こういう影を作る光の方向は有理数のように無限に存在するが、(測度0という意味で)ほとんど存在しない。その方向が高校生でも分かる言葉で説明できること、その証明に計算機科学的なセンスが生かされたことが、嬉しくてたまらなかった。さっそく、専門が近い角先生とその院生の中島由人君(彼とは昔から縁がある)に聞いてもらい、そちらの分野の研究集会で話をし、この結果に自信をつけてきたが、昨年末に、30年前に発表された論文にこの本質的なところが証明されているのを見つけてしまった。しかし、そのことでこの数学的事実の価値が下がるわけではない。日除けのもとでたたずんでいる人に、「この屋根のフラクタルをどんどん細かくしていったら、影はどうなると思いますか?この四点を A、 B、 C、 D とすると…」とテーブルの影を指差しながら説明をしたいくらいである。もちろん、嫌がられるのが分かっているのでやらないが。

 3D プリンタで作ったシェルピンスキー四面体を太陽光のもとで回すYoutube ビデオを作成したので、是非、下の QR コードから見ていただきたい。影が連続に変化する中で、突然面積のある図形が現れるのは手品を見ているようだ。私がここまで執念を持てたのは、この結果を酒井先生に伝えたかったからである。まさに、総人のおかげである。  さらに,つい最近,HフラクタルとTフラクタルについても同様の結果を示すことができた。私の研究の動機に,人を喜ばせたいという気持ちがあるように思う。喜んでくれる人がいるから(それは幻想で,喜んでくれる人がいると私が思っているだけかもしれないが)頑張れる。その相手は多いほどよい。私にとって,数学はコミュニケーションの道具なのかもしれない。

教育のことも少しふれておきたい。自分の専門を教えるのが本来の先生の姿なのかもしれないが、具体的な問題を中心に考えることばかりしてきた私には、ある分野を俯瞰してその分野の専門家を育てる教育はできそうにない。私は何を指導すればいいのだろうと思っていたが、博物館でのイベントや学園祭の研究室企画などで、学生や自分が見つけた面白い数学を伝える活動を行なっている中で、優秀な学生が自分の研究したいネタをもって私のところに来てくれるようになった。学生には、(私が興味をもてる範囲内で)好きなことをさせている。最近は、ゲーム(必勝性を理論的に求める話や、強いゲームプログラムを作る話)に興味のある学生が集まっており、私のセミナーはもっぱらその話だ。ゲームは遊びと思われるかもしれないが、ゲームとは目的をもった複数の主体がインターラクションを行いながら、それぞれの価値を最大化する行為であり、敵対するのではなく協力して同じ目的を達成する形のゲームもある。これを、規則と利得を明確化した実世界のモデルの中で、人間のとりうる最適活動について調べていると思えば、「総合人間学」として、ずれたものではないと考えている。学生と一緒に考えるのは楽しいし、彼らが、これからどんな面白いことをしてくれるのか、楽しみで仕方がない。

 さて、最初の話題に戻ろう。あるお坊さんから、「因縁和合」という言葉を教えていただいた。「因」というのは、人間の中に根源的にある、何かをしたいという気持ちである。人は誰でも、因をさずかって生きている。しかし、どんなに強い因を持っていても、それだけでは実現されない。縁、すなわち、周りの人による支えが必要である。縁は、自分で選ぶのではなく、自分の両親や同僚、たまたま出席番号が隣の人など、環境として与えられるものだ。その、因と縁が和合することにより、ものごとが実現されていくという意味である。「人間」(すなわち因)と「環境」(すなわち縁)の間にある「・」の意味は和合ではないか?それが、私の意見である。

 「人間・環境学研究科」という名前を、それぞれの人が、自分の因として行なっている学問を大切にし、お互いに、他人の因に対する縁になる、そのような、学問を行う場を表した名前と考えるのはいかがだろうか。因というのは、個々の研究内容というよりも、なぜ研究をしているのかという、その人の心の奥底にある目標なのだと思う。分野が違うと個々の研究内容を伝えるのは難しいが、そのような根源的なものは伝わるのではないだろうか。無理に他人の縁になろうと思わなくても、他人の因に興味を示し、インターラクションを楽しんでいれば、自然に縁になれるのではないだろうか。

 自分の中にあるはずの因は、本人は気づいていないことも多いし、変わっていくこともあろう。我々がよく学生に口にする「自分探し」とは、自分の因に気づくことに他ならない。そして、学生が因に出会うのを手伝い、その縁になることが、我々教員に与えられた役割と言えないだろうか。

 研究者としては、みんな異なる因を持っているのが当たり前だが、同じ目標を持って活動していないと、組織を運営していくのは難しいだろう。その点、学生の縁になりたいという思いは、我々が共通に持っているはずだ。将来の世の中を生きる学生たちに対して役に立ちたいという因(目的)を共有しているのだから、我々はこの協力ゲームを楽しむことができる。

 ところで、この冊子の表紙を見ると、「・」で結ばれたものがもう一つある。人間と環境、総人と人環、我々は、二重の因縁を和合させることを任務とする部局にいるのだ。 (ついき ひでき)